ありがとうまたね

決まってからはあっという間だった気がする。
10年以上乗った車を明日手放す。
そして新しい車が来る。


買い替えの理由はあると言えばあるけど、ないと言えばない。
強いて言えば、上野樹里ちゃんが出演しているCMが可愛かったから。
本当に不満はない。
そりゃ長い間乗ってるからあちこち直しはしてるし、今の車ほど燃費が良くない。
でもいい車だった。
そう思うのはいい思い出がいっぱいあったからで、そろそろ買い替えようかと思ってるんだーって年明けに友人を乗せたときに言ったら、そっかあ、この車にはたくさん乗せてもらったよねえって言われて、車を撫でられた。
そして買い替えの話が始まり、今まで乗ってた車を査定してもらった。
不満はないですと言った。
私の兄と姉は何度か車を買い替えてるけど、理由はそれまで乗っていた車に不具合が出て乗り続けることが困難になったからだった。
私はそんなことはなかった。不具合が出ても部品を取り換えれば問題なく乗れた。


というか、事故車だ。
買って3年目だったか、軽トラックに追突された。
渋滞の最後尾について、今のうちにCD替えよっかなーと下を向いているときに追突された。
渋滞中の追突なので、後で聞いたら軽トラックもほとんど停止直前くらいのスピードだったそうだ。
で、本当に馬鹿な話だけど私はそのときシートベルトをし忘れていた。
信じられない勢いで上体が前にブレる。
その衝撃で足がブレーキペダルから外れ、前の車に追突。玉突き。だんご三兄弟で言ったら次男。
無意識にブレーキ踏み直してサイドブレーキを上げ、パーキングに入れてから車外へ出た。
前の車から中年男性のドライバーが出てきて私に勢いよく近づいて来たけど言い訳も出なかった。
首が痛くて、両手で押えてうずくまってるだけだった。
やっと後ろの軽トラックからおばちゃんが出てきて、ごめんなさいとか大丈夫かとか聞いてこられたけどパニクってしゃべれない。
このへんで前の車のドライバーが玉突きだったことに気づいて、加害者のおばちゃんと話し始める。私も最初の衝撃がおさまって、あー通行中の車からじろじろ見られてイヤだなーとか思い始めた。
ここで自分の車のフロント部分を見て驚いた。
ボンネットがぐしゃぐしゃになってエンジン部がちょっと見えてる。
なんで驚いたかっていうと、ぶつかった先の車はお尻がちょっとえくぼができたくらいの被害だったから。
そうなると予想はつく、後ろの部分はえぐれるような変形をしていた。軽トラックの被害はぱっと見てよくわからない。
だんご三兄弟の長男と三男がかすり傷で次男だけ無残な姿。


買い換えたほうがいいんじゃないのと色々な人に言われた。
車屋さんに見てもらったら、フレームも歪んでるしエンジン部は総取っ替えだし、60万はかかりますよって言われて、そんならその分を加害者に出してもらうとして後は追い金出して新車買う費用にしたらいいんじゃないのって。
でも車屋さんは直せないとは言わなかったし、こんなことで車を換えるのが悔しかった。私の意志じゃない。
私の意志じゃないし、この車の意思でもないと思ってた。と思う。


事故のとき救急車が来たけど、最初断ろうとした。
いやそんなたいそうなケガでもないんで大丈夫ですって言ったんだけど、救急隊員さんに「無理には乗せられないが乗って行ったほうがいい」って言われて病院行った。
診断の結果は「軽いムチウチ」。
軽すぎて手当てのしようも薬の出しようもなかった。
でも何か月も不便な生活が続いた。起きて意識のある限り頭痛が続く。
はっきり治ったと思ったのは1年くらい後だったと思う。
それでも、こんな軽い症状で良かったと思った。
シートベルトを忘れるという馬鹿なことをした私がこんな軽い症状で済んだのは、乗っていた車のおかげだと思った。
車は、もうこんな世界中の人が乗ってるからいちいち言わないだけで、本当は本当に危険な乗り物で誰もが乗っていいものじゃないと思う。ことが起これば、人間の力などまったく及ばない恐ろしい力が働く。
車を御祓いしてもらうということを知らない人は案外多いと思う。
いまどき御祓いなんて聞くと、いつの時代の話かとかオカルトや宗教の話かとか思われそうだけど、車を御祓いすることはわりとある。
それで何が変わるかと言ったら何も変わらない。私は御祓いしたことはないけど、気休めなことは本人がよく知っていると思う。
私が初めて自分の車を持った時、自分で決めたことがあった。
「動物が飛び出してきても急ハンドルを切ったり急ブレーキを踏んだりしない」
自分の命や他人の命・財産には代えられないと思ったからだ。
心の準備をしていなければ、対向車や歩行者のことを考えずにハンドルを切ってしまうかもしれないから、いつもこのことは念頭に置いておこうと思った。
そして結局、私の車は動物にぶつかることはなかった。
事故も、あの追突だけだった。
症状も軽くて済んだ。
私はスピードを出しすぎないだとか左右前後を確認するだとか、普通のことをしてきただけなのに事故を起こさずに済んだのは車のおかげだと思っている。
事故の要素なんていくらでもある。
動物や人、大きな障害物が突然出てくるとかは防ぎようのないことで、私にはたまたまそういうことが起こらなかっただけで、そのたまたまは車のおかげだと思っている。
正直に言うと、自分の不注意でヒヤリとしたことは何度もあった。
日々交通事故の情報がニュースで流れる。
危険な運転などは言語道断だけど、見ていてどうしても同情してしまう加害者もいる。
同じ状況下だったら自分も同じことになってたと思う、と、田舎で友人知人全員が車持ちなのでみんなで明日は我が身かと青ざめる。事故を起こされるのも怖いが起こすのも怖い。
私に追突したのは農家のおばさんだったけど、おばさんに怒りは感じなかった。
被害が軽微だったことが大きいのかもしれないけど、わざとじゃないことは分かっていたし、何よりこの程度の事故なら私も起こす可能性があるからだ。
自分たちが日常で使っている、あの異常な質量を持つ乗り物の因業の深さを思った。自分たちでどうしようもない力が働くために、御祓いだとか気休めにもすがりたくなるのが分かる。
私はあの車に守ってもらったと思っている。
日本の軽は事故の衝撃を吸収するためにわざと壊れやすいつくりになっているということは知っていたけど、自分がぶつかった車よりもはるかにひどい壊れ方をした車を実際に目の当たりにしたら、何か理屈では割り切れない感情があった。
そして私の前にどうしようもない障害物を出させなかったのはあの車の持っている運が強かったからだと思っている。
ありがとう、本当にお疲れ様。
明日、最後の掃除をする。洗車は今日済ませた。
下取りの査定をしてもらっているとき、もうこの車を見られなくなる日が来るんだなと思ってた。
どこの中古屋へ行くかなんてわからないし、偶然見つける確率も低いだろう、と。
ところが査定が終わって意外なことを言われた。
この店の代車にします。と。
よく走る車ですし、問題なく乗れますから、と言われた。
まだ縁はつながっていた。
そしてこの車はこれからも人を乗せ続ける。
どうかこれまでと同じように、これからも良いものを乗せられますように。