密室

帰りはK駅夜9時発の鈍行。
4人掛けのボックス席が空いていたので、窓側に一人で座った。
他の席も同じようなもので、空席が多かった。
発車時間まで時間があるので携帯をいじっていると高校生くらいの男の子が一人来て、私のいる席のはす向かいに座った。
細い体型してて、チェックのシャツにジーパン姿。
お菓子片手に持ってゴミを床に捨てつつ食べてる。
特に変わった恰好はしてないし、顔色も悪くなく、髪も染めてないし、普通。
そして、「うるさい」「腹立つ」「だまれ」とかぶつぶつ独り言言ってる。
車内はざわついてるくらいで、特に目立つ声もない。


そして突然、とうとう堪忍袋の緒が切れたってふうに、その男の子が物凄い剣幕で怒鳴った。


「うるさい!ええ加減にせえよナカミチ!それ以上ゆうたら、・・・、・・・
ぶっ殺す!お前の寝とる間に火ぃ付けたる!殺したる!」
視線を少し遠くの座席に固定して、身を乗り出して、ヒステリー起こしたみたいに怒鳴り始めた。

相手の人がケンカに応じてこっちに来たらどうしようと思った。
私は窓側に座ってて、逃げようがない。
こんな狭い席で殴り合いのケンカを始められたら、こっちも無傷で済まないだろう。
でも、相手の反応は無い。相手も驚いて黙ってしまったんだろうか。
もちろん、車内はシーンとして誰も雑談をやめた。
ずっと怒鳴ってる。ナカミチ!おいナカミチ!って繰り返して。
私はその間中、まだ動いてない窓の外を見ていた。なるべく、なんでもないような
顔をして、それから携帯の着信音をサイレントにした。何も刺激しないように。電源は切りたくなかった。
やっと電車が駅を出発して、しばらくたってからその子が席を移動した。
すごく長い時間みたいに思ったけど。すぐに席を立つのも怖くてじっとしてたら、次の次の駅で女の子が二人乗ってきて、私の席の通路側に座った。すごく安心した。これでもうあの子はここには来ない。
それでも、指はずっと痙攣してた。やっぱり恐怖で震えてたんだと思う。
車両を移る人が何人もいた。
K駅発の鈍行。あの子もすぐに降りるだろうと思った。私の降りる終点のF駅に着くまで2時間半。


またすぐ、怒鳴り声が少し遠くから聞こえ始めた。
「ああそうや、登校拒否や、それがどうした。病院?病院なんか行ってどないするんじゃ。行ったかてしゃあないやろ。高校へは行けんかった。内申書が真っ白で、高校へ行けんて先生が言うたんや。高校へは行けんて言うたんや。ナカミチ、聞いとるか。なんでこんだけ話してわからんのじゃ。お前はアホや」
それに対する声は聞こえない。ここでやっと、この子は一人で電車に乗ってるんじゃないか?と思い至った。いくらなんでも、そのナカミチとか言う人が保護者ならなだめる声くらい聞こえるだろう。
しばらくして、また怒鳴り声が始まった。
内容は先程と同じ。同じ言葉を繰り返してる。内申書がどうの。言いまわしも同じだったと思う。それでいよいよ、さっきまでの自分が置かれてた状況が怖くなった。最初からいない人なら、近くにいるなら誰でも同じと思うかもしれない。
ただのケンカだと思っていたときも、「この子がもし刃物とか持ってて、それを振り回し始めたら……」と考えてたんだけど、それはあんまりにも悲惨な想像だし、悪いことを思い描きたくなかった。
こんな自宅から何十キロも離れた、友達も家族もいないこんな場所で、何の準備もしてないのに。何もなくなってしまうかもしれない。
私がこんなに怖いと感じたのは膝がつかえそうな至近距離でそのヒステリーを目の当たりにしたからだと思う。
早く降りて欲しい、と思っていたら「わしはA高校に行きたかった」と聞こえてきた。
ああ、これは、私の降りるF駅か一つ手前のA駅まで降りんな、と思った。


相席してた女の子達は、一つ二つ駅を過ぎてすぐ下車してしまった。
私は車両を移ることにした。ドアがなかなか開かないので手が震えた。
なるべく前のほうに座りたかった。運転手の近くに。どうなるものでもないけど。
4人掛けの無人のボックス席には怖くて座れなかった。誰からも見えない席に座るのも嫌だったから、出入り口のそばの席に座った。
2時間を過ぎた頃、さっきのあの子が車両を移動してきて、目の前を通って運転手と何か話し始めた。
別に、何もなかった。何か尋ねてたみたいで運転手も普通に答えてた。


その後は何もなく、F駅に着いた。
電車を降りて、普通に階段を登って。
階段の途中におばあさんがいた。
そして私に話しかけてきた。
「ここはA駅か?」 
瞬間、頭が真っ白になった。
別に、おばあさんは普通に話してるだけなのに。
違いますと言っても「間違うて降りたんかなあ。ほんまにA駅やないんけ?」と繰り返し聞かれるのを
「違いますよ、F駅ですよ、ここは」と言い続けた。
A駅へ行く電車を見つけようと思って改札前の電光掲示板で次の列車時刻を見てみたら、真っ黒だった。
あっそうか、もう終電が終わったんかもしれん、って思った。そういう理屈が思い浮かぶ前に、真っ黒の掲示板見て、とっさに「もう後がない」と思った。